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2011年8月14日

居合道日記 / 恥ずかしながら……

居合道関連のサイトを見ていたら、田宮流の居合道歌にこのような歌があることを知りました。

 極意とは表の内にあるものを心尽しに奥な尋ねそ

私が以前に書いた記事「居合道日記 / 秘奥は初太刀にあり」は、この歌とほぼ同義ですね。

古来より伝えられていることを知らなかった自分が、自分で考えたこととして語ってしまったのは恥ずかしいことだな、と反省。
それと同時に、やはり日々の稽古で感じること考えることを怠ってはいけないとも思うので、また今後も放言していくと思いますが、どうぞよろしくお願いします。

投稿者 utsuho : 2011年8月14日 04:27 | 居合道

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コメント

私こそ思えば安易に本や、空穂さんのブログよりそのまま引用したりしてお恥ずかしいかぎりなのですが、私の所は、演武業を覚える場所には恵まれた環境の反面、内面的な知識等が得にくい不満があります。

はっきりは、書けませんが、おかしいです。
段位は上がるが内面的ものが釣り合わないと滑稽なもので、 知らないことを知らない。
疑問さえ持たずにただ演武業をこなす繰り返しだったり。
私自身も、バランスがとれていない未熟者ですので哀れなものです。

先日も個人的に他流派交流の中にて、守破離の教えを学びました。

この先も、自主的に求めないと、あまり期待はできないと思われます。

その証拠に、三年前頃より上段者から稽古に出てくる方が減っております。

他の方々は指導者として内面的ものもしっかり教え未来の後継者を育てているように聞きました。
放任主義も、見て盗めも指導と言えば指導ですが…。

こちらこそ、勉強させていただいております。

投稿者 月のうさぎ剣士 : 2011年8月16日 00:47

>月のうさぎ剣士さん
なかなか難しい問題ですね。

以前、私のBlogでも「居合道日記 / 段位という器」(2010年05月07日)で触れていますが、演武の業さえできていれば、段位はあがるものだと考えています。
段位を「器」としてとらえた時に、その器に満々たる中身を湛えている人もいれば、床の間に飾るようにただ器ばかりが立派な方もいると思います。
それでも、どちらも同じ段位として扱われるものです。

道場で教えることができることというのは、演武の業だけで精一杯でしょう。内面の持ち方、居合についての考え方などは、100人いれば100通りの居合観があってよいと思っています。
さらに言えば、自分の体得したものの100%を他人にに伝えることなど先生といえど到底無理な話です。
だから初心のうちから「業を見る目、盗む目を養う」「考える頭を養う」ということが重要になるのだと思います。

このBlogについても、決して答えを述べているのではなく、ここを読んでくれる人が居合について考えるキッカケになればいいな、と思いながら書いています。

投稿者 空穂 : 2011年8月16日 22:45

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