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2011年5月10日

居合道日記 / たとえば氷山のように

今回はちょっと長文です。
本当は、錬士になる前に書きたかったのだけど、イラストを書けずに、エントリが遅くなりました……。

居合の教えというのは氷山のようなものだなあ、ということをよく考えます。
およそ道場で教えられること、目に見える部分というのはわずかであって、その下には道場では教えられない膨大な教えがあると考えています。
たとえば、業に定められていない状況への対応、流派の体系的な理解、行住坐臥の振舞いのあり方などがあげられます。

イメージにすると、こんな感じでしょうか。

道場での稽古や、大会での演武など、先生や他の人の目に留まる部分というのは、海の上に突き出た部分です。
もちろん、立派な演武(=高い山)を目指すことも重要ですが、上ばかりを高くしようとしても、山自体が沈む、すなわち自分の業を見失うことにつながります。
あの先生がああ言っていたから、この先生がこう言っていたからと、その言葉を鵜呑みにして業を取り入れるのではなく、その業の底に込められた理合、体系をよく理解して、自分の業に反映させるということが必要になります。

また、先生から指摘してもらえることなど、海の上に出ているほんのわずか目に見える部分でしかないという考えからすると、「先人の教えをいささかも改変することなく守ることであり、居合道に守破離はなく守のみである」という考え方も、いささか小さい考え方かと思います。
その考え方では、潜在部分を大きく育てることはできないでしょう。

「業、形より入り、業、形を脱す」という言葉もある通り、最終的には形にとらわれず、いかなる状況にも対応できるようになるのが理想だと思います。
そのためには、道場で教えられない潜在部分をしっかりと形成することが必要でしょう。
また、潜在部分に大きな塊を作っておくことで、小さなことに揺るがない自分の業を持つことになり、自然と氷山が上に浮上する、つまり目に見える業の向上にもつながるでしょう。

私自身はこのようなことを考えて稽古をしていますが、みなさんはいかがお考えでしょうか。

投稿者 utsuho : 2011年5月10日 00:02 | 居合道

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コメント

初めてコメントいたします。

居合全体を氷山として考えると言うのはたとえが良いですね。
絵図で見るとまたわかりやすいです。

私自身、多分、氷山の一角を見ているにすぎないんじゃないかと思いました。

業の部分(上部)だけを成長させても大切な(下部)底の大きな所は、自重で沈んでよけい見えなくなり迷う。

今の私ですね、まるで。
居合を何のためにやっているのかの問に私は迷っております。

こうしていろんな方と少しずつ道が交わっていくのも、とても嬉しいものです。

ちなみに私、『道が交わっていくのも嬉しい』この表現法ですが、何かいいですね。
これも氷山の底の一部分ではなかろうかと思いました。

投稿者 月のうさぎ剣士 : 2011年5月12日 22:16

>月のうさぎ剣士さん
コメントありがとうございます。

昇段審査でも日々の稽古でも業ばかりしか見えていない。
「八方心眼」など流派の大元となることについて、なかなか教え・稽古されていない、自分の道場の様子から、このようなことを考えてみました。

私自身は、日ごろから隙を作らない自然体の立居振舞を心がけたら、居合の業がよくなったような経験もあります。

月のうさぎ剣士さんは、今、悩んでおりますか。
きっとその悩みが一段高いところへ導いてくれることと思います。

私自身は、中断したり怪我したりと、平坦な稽古を行なってきたわけではないのですが、だからこそ「道」というイメージを強く持っています。
同じく道を歩んでいる方との交流で、少しでも何かを得られるとしたら、それは素晴らしいことだと思います。

投稿者 空穂 : 2011年5月13日 01:18

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